『エン』
今朝、起き抜けのまだアイドリング中の頭で、ぼんやりと考えていた。
「縁」というものを、ずっと自分を知るための「鏡」だと思ってきたなぁ、と。
目の前の誰かを通して、自分の心の癖や、隠れた痛みを見つける。それは確かに一つの真実だけれど、ふと、それだけではどこか計算高い、冷たい人のような気がした。
相手を、自分を知るための道具にしてしまっていないか。
それでは、この温かい世界が、ただの確認作業の場になってしまう。
ふと、窓の外を眺める。
風に揺れる木の葉も、道ゆく人の足音も、すべてはただ「そこにある」だけだった。
意味を求めて右往左往しているのは、わたしの頭の中だけなのかもしれない。
以前、夢の中でお会いした大谷翔平さんの言葉を思い出す。
(あくまで夢の話で、私は彼の熱烈なファンというわけでもないのだけれど……。ただ、彼の在り方には注視している)
夢の中で、彼に質問してみた。
「あれだけの大舞台で、何万という歓声に包まれながら、どうして自分の能力を完璧に出せるのですか?」
彼は一言、こう答えた。
「ただ、目の前のピッチャーと、ボールだけを見ているのです」
「周りは気にならない」と静かに笑うその姿は、評価や意味づけの世界から、もっと自由な場所にいるように見えた。
誰かに認められるためでもなく、自分を証明するためでもない。
ただ、今この瞬間に差し出されたものに、全神経を注ぐ。
それ自体が、もう「答え」なんだろう。
わたしの名前は「眞爾(しんじ)」。
「まことの、あなた自身」という意味が含まれているそうだ。
若い頃は、何者かにならなければと、外側にばかり答えを探していた。
けれど、還暦を過ぎ、こうして布団の上に静かに座っていると、本来の自分とは「探して見つけるもの」ではないのだと感じる。
余計なものを削ぎ落とした後に、ふっと残っている「それ」。
それは、言葉にしようとすると指の間からこぼれ落ちてしまうような、淡い感覚だ。
皮膚が外気を感じ、心臓が勝手に動いている。
この、あまりにも当たり前で、あまりにも奇跡的な「いま」の連続。
縁とは、自分を映し出す鏡であると同時に、わたしがわたしを忘れて、ただ目の前の存在と溶け合うための「入り口」なのかもしれない。
相手を分析するのをやめて、ただその人の呼吸に耳を澄ませる。
自分の正体を突き止めるのをやめて、ただこの肌が感じる温度を受け入れる。
そうして「自分」という輪郭がふっと消えかけたとき、皮肉にも、そこには一番静かな「安心」が流れている。
今朝の問いに、理路整然とした答えは出なかった。
けれど、それでいいのだと思う。
問いを抱えたまま、この頼りない自分をまるごと引き受けて、今日という日を歩いていく。
知ることよりも、ただ触れていること。
理解することよりも、ただそこにいること。
特別なことは何もない。
今日も、この体が静かに息をしている。
それだけで、この世界との縁は、もう十分に結ばれているのだと思う。
Seed House 京都 シンジ