2026/04/03 00:25

『エン』

今朝、起き抜けのまだアイドリング中の頭で、ぼんやりと考えていた。

「縁」というものを、ずっと自分を知るための「鏡」だと思ってきたなぁ、と。

目の前の誰かを通して、自分の心の癖や、隠れた痛みを見つける。それは確かに一つの真実だけれど、ふと、それだけではどこか計算高い、冷たい人のような気がした。

相手を、自分を知るための道具にしてしまっていないか。

それでは、この温かい世界が、ただの確認作業の場になってしまう。

ふと、窓の外を眺める。

風に揺れる木の葉も、道ゆく人の足音も、すべてはただ「そこにある」だけだった。

意味を求めて右往左往しているのは、わたしの頭の中だけなのかもしれない。

以前、夢の中でお会いした大谷翔平さんの言葉を思い出す。

(あくまで夢の話で、私は彼の熱烈なファンというわけでもないのだけれど……。ただ、彼の在り方には注視している)

夢の中で、彼に質問してみた。

「あれだけの大舞台で、何万という歓声に包まれながら、どうして自分の能力を完璧に出せるのですか?」

彼は一言、こう答えた。

「ただ、目の前のピッチャーと、ボールだけを見ているのです」

「周りは気にならない」と静かに笑うその姿は、評価や意味づけの世界から、もっと自由な場所にいるように見えた。

誰かに認められるためでもなく、自分を証明するためでもない。

ただ、今この瞬間に差し出されたものに、全神経を注ぐ。

それ自体が、もう「答え」なんだろう。

わたしの名前は「眞爾(しんじ)」。

「まことの、あなた自身」という意味が含まれているそうだ。

若い頃は、何者かにならなければと、外側にばかり答えを探していた。

けれど、還暦を過ぎ、こうして布団の上に静かに座っていると、本来の自分とは「探して見つけるもの」ではないのだと感じる。

余計なものを削ぎ落とした後に、ふっと残っている「それ」。

それは、言葉にしようとすると指の間からこぼれ落ちてしまうような、淡い感覚だ。

皮膚が外気を感じ、心臓が勝手に動いている。

この、あまりにも当たり前で、あまりにも奇跡的な「いま」の連続。

縁とは、自分を映し出す鏡であると同時に、わたしがわたしを忘れて、ただ目の前の存在と溶け合うための「入り口」なのかもしれない。

相手を分析するのをやめて、ただその人の呼吸に耳を澄ませる。

自分の正体を突き止めるのをやめて、ただこの肌が感じる温度を受け入れる。

そうして「自分」という輪郭がふっと消えかけたとき、皮肉にも、そこには一番静かな「安心」が流れている。

今朝の問いに、理路整然とした答えは出なかった。

けれど、それでいいのだと思う。

問いを抱えたまま、この頼りない自分をまるごと引き受けて、今日という日を歩いていく。

知ることよりも、ただ触れていること。

理解することよりも、ただそこにいること。

特別なことは何もない。

今日も、この体が静かに息をしている。

それだけで、この世界との縁は、もう十分に結ばれているのだと思う。

Seed House 京都 シンジ