2026/04/10 01:11
急流下りゲーム。
気持ちは記憶によって揺れる。定まることはない。
私はよく夢を見ます。
目が覚めてからも、しばらくはその光景を詳細に覚えている方です。
今朝も、こんな夢を見ました。
質屋時代の仲間と、百貨店の催事に来ている。
なのに、私は寝坊をしてしまった。
焦って百貨店の中を探し回るが、どこにも催事場が見つからない。
彷徨っているうちに、自分が食べたゴミを分別して担当者に渡そうとしたら、狭い階段で大渋滞を作ってしまった。
誰も文句を言わず、ただ黙って並んでいる。
誰も私を責めないが、明らかに目は合わせないようにしている。
誰も声を荒らげない。
なのに、私だけが「非難されるのではないか」と、一人でハラハラしていた。
目が覚めてから、しばらくその余韻の中にいました。
自分を責めていたのは、世界で“自分”だけだった。
周りは何も言っていないのに、私の中だけで勝手に「裁判」が開かれていたのです。
被告も、検察も、裁判官も、すべて自分。
これは、夢の中だけの話ではないな、と思いました。
私たちの「気持ち」というものは、記憶によって激しく揺れ動きます。
ある言葉を聞いた瞬間に、昔の出来事がフラッシュバックする。
ある場所へ行っただけで、封印していた感情が起き上がる。
誰かのふとした表情が、全く別の誰かの記憶を呼び覚ます。
自分で自分の心をコントロールしているつもりでも、実は過去の記憶が引き金を引いている。
しかもその引き金は、何十年も前のものであることが珍しくありません。
だから、気持ちは定まらなくて当然なのです。
波が来ては引き、引いたと思ったら、また新しい波がやってくる。
人生は、まるで「急流下りゲーム」のようです。
次に何が来るか、先は見えません。
鋭い岩があるかもしれないし、急に流れが速くなるかもしれない。
穏やかな場所に出たと思ったら、またすぐに急な曲がり角が現れる。
必死にオールを漕がなければならない場面もあります。
でも、ずっと漕ぎ続けることはできません。
ときには漕ぐのをやめて、ただ流れに身を任せる時間も必要です。
「漕ぐこと」と「休むこと」。
この両方があって初めて、私たちは急流を渡りきることができます。
最近、こんな言葉に出会いました。
「謙虚とは、自分を過小評価することではない。物事を決めつけず、あるがままを受け止め、一つのことに固執せず、自己を拡張していける視点のことだ」
これを読んだとき、夢の中の自分を思い出しました。
誰も責めていないのに、勝手にハラハラしていた自分。
それは傲慢でも卑下でもなく、ただ「記憶」に揺さぶられていただけの姿でした。
そんな自分を責めても、何も変わりません。
ただ、「ああ、またいつものパターンが出たな」と気づいて、そのまま置いておく。
それこそが「謙虚さ」の実践なのかもしれない、と感じたのです。
急流の中にも、ふっと休める場所があります。
流れが緩やかになる場所、岩の陰、水面が静かになる一瞬。
そこで顔を上げると、ようやく空が見えます。
「ああ、今自分はここにいるんだな」と、現在地がわかります。
身体も、全く同じです。
顎が固まっているとき、背中が張っているとき、胃が重いとき。
それは急流の中で、必死に漕いで、力んでいる状態です。
そのままでは、いつか力が尽きてしまいます。
だから、手のひらで顎を包んで温める。
血流を丹田(たんでん)へと落とす。
みぞおちに手を当てて、三度、深く呼吸する。
それだけで、少し流れが穏やかな場所へ出ることができます。
必死に漕ぐ時間と同じくらい、この「余白」の時間が大切なのです。
今日も、急流は続きます。
次に何が来るかはわかりません。
でも、それは誰にとっても同じこと。
どんなに準備をしても、曲がり角の先を完璧に見通すことはできないのです。
だから今、この瞬間。
「漕ぐべきか、休むべきか」を、身体に聞いてみる。
身体は、いつだって正直に答えてくれます。
Seedhouse京都 シンジ
